感想ゴダールと俳句

たとえば日記というものがその日あったことのログだとするならば、短歌というのはその日いたことのログなんじゃないかと思うことがある小説は、ずっとわたしがいたことのログ。その日あったことがその日いたことに詩的置換されるとき、それは、短歌に、なる。

だから歌集を読むということは、その日あなたがいたことのログを、その日わたしもいたこととして、ずっとロムっていく作業になる。そこにそのときこのわたしもそのかたちで、いたかもしれなかったこと。ひょっとするとそれはわたしの詩的置換かもしれなかったたまたま的存在論

こないだの小津夜景さんのイベントで、ゴダールの話が少し出ていたが、もしかすると切字や切れというのはゴダール映画のなかの唐突な音や映像のカットにも近いのかもしれない。ゴダール映画は俳句なんだ、とするとすごくゴダール映画がわかりやすいような気がする。ゴダール映画は短歌なんだ、よりは。

じゃあ短歌的な映画とはなんだろうと少し今考えてみるのだが、たとえば新海誠の映画ではどうだろうか。新海誠の映画では、人物の内面にちゃんと都市や風景や音楽が答えてくれる。ゴダール映画では、人物の内面に返事はしてくれないがつまり切っちゃうが、新海映画では風景が答えてくれる

昔、夜景さんとピナバウシュの話をしたことがあるが、ピナはたぶんふだんの身体のなかに切れをわざわざ持ち込んだひとである。ピナバウシュの身体運動は、キスでさえ切れが入る。いびつな機械のような身体になっていく。バスターキートンなんかも身体に切れを持ち込んでるかも

キンキキッズ全部だきしめてを聴くと、短歌定型にめいっぱいというかめちゃくちゃ音数を詰めたときにどうなるかが体感できる。つまり定型はそのままに早口になる。例えば試さなくていいんだよの67のようなところがぼくを試したりしなくていいんだよの125として歌われる。

音律におさめるために早口になるので何を言っているのかがよくわからなくなるというデメリットがあるのだが、そのかわり、音そのものへ、音自体そのものに敏感になるというメリットもある。逆説的なのだが、早口は意味を疎外するために、音そのものに敏感になり、聴くということが浮かび上がってくる

この早口詰め込みというのはそもそもこの曲をつくった吉田拓郎にまつわるもので、まるでボブディランそのものじゃないかという春だったねという吉田拓郎のすてきな歌があるのだが、これもたしか詰め込み型だったように思う。思い返すとボブディランも割とそういうとこあったのかもしれない

私はボブディランのメンフィスブルースアゲインという歌が好きなのだが、割といろんな歌詞のバージョンがあってボブディランが忘れるらしい。8分くらいのとても長い歌だし、ディランにとっては、歌詞は詰め込まれながらも、それは音を浮き彫りにするためのものだったのかもと思う時もある